『わがまま きまま 想うがまま』 日本本土から南に1000㌔小笠原諸島・父島から出発。 花鳥風月を感じ、カナダを旅していきます。

2016年9月27日火曜日

『K'UUNA~ハイイログマの村~』

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ハイダ・グワイでは、

西洋人が19世紀に持ち込んだ天然痘が猛威を振るい、人口が激減。

およそ3万人ものハイダ族は1880年代半ばまでに、

1000人に満たない数にまで落ち込んだ。

西洋人が持ち込んだ流行病に抗し切れず、

生き残った島民は、村を捨て、別の場所に移動して住まざるを得なくなった。
 
廃墟と化した集落は、1世紀ほど経過した1981年に世界文化遺産となった。


グワイ・ハアナス国立公園は、環境保全のため年間の入園者を制限し、

ハイダ族の文化や精神を損なうことがないよう細かいルールを設け、今に至る。

ハイダ族主導で始まった取り組みの中で、とても大事な存在がウォッチマンである。

ハイダ族の彼ら自身が、5月から9月の観光シーズンの間、

現代の生活から隔絶された駐在地に住み込み、任地のガイドの役割を果たす。

ウォッチマンが守る地は、いずれ大地に帰る場所。

ウォッチマンは目に見えるものではなく、
目に見えないものに価値を置き、
守り、伝えることが一番の仕事である。


今回、私達はグワイ・ハアナス国立公園の中でも最も北に位置する村の跡、
スケダンを訪れた。


9月下旬

すでに観光シーズンも終盤に来ていた。

ハイダ・グワイでは冬がすぐそこまで来ており、海は時化ることが多くなった。

実際、私達がツアーに参加する2日前まで時化だった。

国立公園内に上陸するには、ゾディアックボートもしくはカヤックしかなく、
時化れば行くことは出来ない。

今回参加したツアーの船長とガイドはハイダ族、
ガイドは若い女性の方だった。


私達の中ではお馴染みとなった防寒着に着替えてから出発する。

バンクーバー島では上着のみの防寒が多かったが、
ハイダでは上下の防寒着、手袋、ニット帽、そして長靴が用意されていた。

ただ、完全防寒をしていても、ボートが走り出せば寒く感じた。


海況は凪

しばらく走ると、岩場で休憩していたアザラシがたくさんいた。

彼らはボートから発するエンジン音に気付くと、一斉に顔を持ち上げ、私達を見た。

そして一目散に海を目指して、身体をくねらせながら岩場を移動していった。


何が起こったのか状況が理解できていない、新生児。

岩場で一人だけになって、やっと海に向かおうとしていた。

その足取りはまだどこかぎこちなかった。



海藻にまぎれながら、私達をのぞき見する大人のアザラシたち。

アザラシたちは常に警戒の態勢を崩すことはなく、私達はその場を離れた。



次の岩場には、ステラ・シーライオンが群れていた。

餌となる海の幸を求めて夏場はアラスカ方面に居座り、サーモンがいなくなる冬場には南下するとのこと。


全長は3mを超え、たくましい身体は体重1㌧にもなる。

その身体から発せられる咆哮は圧巻で、岩場に打ち砕ける波の音すらもかき消していた。


アザラシと大きく違うことは、私達に気付いていてもお構いなし。

のんびりくつろぐメスとは対象的に、若いオスたちは顔を突き合わせ怒鳴りあっていた。


岩場の上では、彼らが脅威と感じる天敵はいない。

その余裕の表れが全身から出ていて、寝顔は可愛く見えた。

  

港を出発してから2時間もしない時間で、今回の目的地に到着した。

スケダン(SKEDANS)はグワイ・ハアナス国立公園の中でも最も北に位置する村の跡。

村はハイダ語で「クーナ」、ハイイログマの村という意味をもつ。



クーナには30以上の家が並び、700人のハイダ族が暮らしていた。

家系はワタリガラスとイーグルがいたそうだ。

すべての家には名前が付けられており、
家屋の正面にはその名前を表す動物や歴史が彫られたトーテムポールが並んでいる。

所々にコケが付着しているポール。

傾いたり、縦に大きな裂け目があったり。

原材料には腐食に耐性があるシダーが使われているが、

時間の流れを止めることは出来ない。


ウォッチマンが観光シーズンの数カ月を滞在する建物。

私達が訪れた時はすでに任期を終え在中していないとのこと。

残念ながら、クーナの末裔に逢うことは出来なかった。

ウォッチマンのトーテムポールの保存作業は、

ポールに生えた雑草を除去する程度にとどめることになっている。

彼らの大事な役割、それは自然に還ることを見守ることである。


海岸でランチを食べていると、3頭のシカが姿を現した。

こちらの様子を窺いながらも、海藻を食べ、

私達と同じ海岸で同じように休憩していた。


1頭のシカがこちらに少しずつ近づき、私達を見ている。

このシカ達もウォッチマンと同じように見守り続けているのかもしれない。


午後からはハイダ族のガイドとともに、集落を歩く。

トーテムポール群の後方には当時の住居後が残されている。

住居跡は四角形のくぼみになっており、半地下だった。

集落の酋長の家の前にはひと際大きなトーテムポールがあったそうだ。

そこに描かれている模様は

集落全体の歴史やその家に属する家系の歴史を表していた。

そのトーテムポールを見れば、彼らがどのようにしてこの場所に辿り着いたのかがわかる。


住居を出ると、

目の前には自分達の歴史を表すトーテムポールが並び、

樹々の間から空と海、そして入江の海岸線が見えていたはずだ。

いまでは住居もトーテムポールも当時の姿は残っていないが、

この風景はおそらく変わらないだろう。



朽ち果て、苔生し、ほとんどのトーテムポールは横に倒れていた。

100年以上も前にハイダ族がいなくなった集落は、

時間をかけて、少しずつ森に戻ろうとしていた。



倒れたトーテムポールを礎にして、大きく育った樹は

これから森に戻るための大事な一本になるだろう。


かつては色鮮やかに塗られ、

物語を語っていたはずの動物たちのポールは、

いまは一面苔生し、その窪みがあることでやっとトーテムポールだと気づく。


文字を持たなかった彼らが、

トーテムポールに残した想いはとても強かったはず。

そのトーテムポールが朽ち果てていく様を見ると、寂しく思えた。

しかし、抗うことができない時間と自然の力は、

諦めとか腹立たしいとかではなく、

すべてを受け入れるしかないと思わせる絶対的な力だった。

その力を宿したトーテムポールは不思議な魅力を持っていた。


頂上部分が前方からくり抜かれ、

中に芽吹いたばかりの草や木が生い茂っているトーテムポールがある。

亡くなった人が霊的な存在となり、外敵や疫病などの災いから護ってくれることを信じ、

遺灰を一枚板で作ったボックスに入れ、頂上部分に安置していた。

そのぽっかり空いた頂上部分からは、次の生が宿り育っていた。

  

墓柱は故人の属する模様がひとつ彫られる。

数十年前に撮られた写真を見て、イーグル家系の墓柱だということがわかる。



自然と共に。

彼らハイダ族の想いは、とてもシンプルでかつ力強いものだった。

森には土が必要不可欠である。

その土には命あるものの死が必要不可欠である。

自然と共に成長し、倒れ、やがて土となり、新しい命のための礎になる。




この集落を離れる前、船長が集落から少し離れた森の中を案内してくれた。

北米で最も古いとされていたハンノキが森の中に横たわっていた。

空を見上げると、樹々の間にぽっかりと青空が広がっていた。

これから先、この場所はどうなっていくのか。

ハイダの想いが沁みこんだこの地はどのように変化していくのか。

終わりと始まりのはざま、不思議な場所だった。



あとがき

日本に着いてから、私の視界の中にはコンクリートや鉄筋が必ず入っています。
可能な限り形をとどめたい、残したいとする一方で、
なくなることを宿命としている世界があることを不思議に感じています。
どちらがいいのかはわかりません。
人と自然の付き合い方の答えは、たくさんあって正解のないものだと思っています。
ただ私個人的にはハイダ族の想いは、とても純粋で尊敬するものでした。
彼らの文化、言葉、神話そして踊りや音楽などの想いが
少しでも多く、未来に紡いでいってほしいと思います。
(2017.3.1)


すだっち



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